果しなき流れの果に:小松左京
久しぶりに小松左京のSFを堪能した。なんと昭和40年に書かれた作品だが、まったく古さを感じさせない。むしろ古典としての重みを増したように感じる。
白亜紀の地層から発見されたという砂時計。その砂時計の砂は減ることも増えることもなく永遠に落ち続けるのだった。その謎を探ることになった大学の研究助手、野々村は発掘現場である和歌山・葛城山に向かう。しかし、この件に関わった人たちは変死したり、不慮の事故にあったりしていた。そして野々村自身も、古墳で不思議な体験をした後、そのまま行方不明となってしまう。
はるかな未来、地球が滅びてもまだ人類は生き続ける。けれど、地球のない人類は「地球人」と呼べるのだろうか。宇宙を認識するには、より高次元の意識への階梯を登らねばならず、その能力のないものは低い次元にとどまり、与えられた仕事をするしかない。高い階層のものは、宇宙を支配するものになる。
時空を越えた宇宙の支配者と、それに抵抗するものたちとの戦いの話である。ちょっと難しいところもあるけれど、ただ、現代の日本で主人公を待ち続ける女性の存在が、この小説を感動的なものにしている。
淡々と描かれる、待つ女性の人生に心を打たれるのである。
ところで、この作品の『認識に至る意識の階層』の話は考えさせられる。
よく「あるある大辞典」なんかで、細胞の中の組織や、何かの成分が「こんな働きをしています」と説明するために、擬人化して見せることがある。(ミトコンドリア君とか。)
あの類を見るたびに思うのだけれど、たとえば自分の体内のある細胞の中のある組織が、一つの目的のために必死で働いている訳だけど、もしそのものに意識があったとして、そいつは人間の体の中で、人間を生かすために自分が働いている、なんて認識はできないんじゃないだろうか。ただ、目の前にある仕事を本能に従ってこなして、生きているだけだと思う。自分を宿している人間の存在は、そいつの認識範囲の遥か高次元にあるのだ。
我々人間ももしかしたら、なにかそういう1個の細胞とか組織とか、そういうものであるのだけれど、自分が何の一部であるのかを認識できないでいるだけなんじゃないだろうか。我々が細胞だとしたら、「人間」にあたるものは何なのだろう...。
そんなことを良く考える。
ずっと考えると気が遠くなるけど。
<ハルキ文庫>
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